日本語お助け人として
1通のメールがくれた、「ノアの方舟」への最終切符
2003年、それまで都内の部品メーカーに勤務していた私は、一念発起して個人事業者に転身しました。大学の国文科を出て最初に勤めた編集プロダクションで磨いた校正・校閲、そしてリライトのスキルを生かすためでした。
編プロ時代には、誤字・脱字を決して見逃さない仕事ぶりに「磯崎関所」というあだ名をもらったことを思い出していたのです。実際、文字校正だけでなく、「今ある文章をさらに読みやすく、わかりやすくする」という仕事に私は強いやりがいを感じていたのでした。
しかし、独立しても、営業のしかたも知らず人脈もなかった私は、「お客様から仕事をいただく」ということがこんなにも難しいことだったのかと痛感することになりました。出版社にあいさつに行っても、「フリーでの実績がないとムリです」と、門前払いを受けてしまうのです。
「仕事をいただくためには実績が、でも実績を作るためには仕事が……」というどうにもならない苦しみの中、私は自宅に引きこもり、思い余って株のデイトレードに手を染めてしまいました。でも、元手が少ない上に素人考えで手を出した結果は、資産の半減という「大やけど」でした。
そんな、焦燥に駆られて廃業も考えざるを得なかったある日、1通のメールが届きました。以前に一度だけお会いし名刺交換をしていた編集プロダクションの社長Yさんから、BCCで送られた「新規大募集」というタイトルのものでした。
「書籍の編集丸請けの仕事が増加しているので、キャリア豊富な校正者を求む」という趣旨のメールで、フリーとしての実績がほとんどなかった私にとっては、それは本来応募できる案件ではありませんでした。しかし、私は覚悟を決めて応募のメールを書いたのです。編プロ時代に受けた高い評価と、目の前の仕事に取り組む際の集中力の高さを必死でアピールしました。
翌日、「それではぜひお願いします!」という返信が来たとき、私はうれしくてたまりませんでした。以来、その編プロからは定期的に仕事をもらえるようになりました。
今では実績も増え、それをもとに出版社をはじめとした多くの企業とおつきあいできるようになった私ですが、その第一歩を踏ませてくれたY社長のご恩は一生忘れることができません。今思えば、あのとき届いたメールは、「ノアの方舟」への最終切符だったのかもしれません。
言葉の多様性にあらためて気づいた日々
それから今まで、私は書籍だけでも200冊以上における校正・校閲やリライトの仕事を担ってきました。
文章における表記にも表現にも絶対の正解があるわけではなく、文脈や著者の価値観などによって「何が正しいか」は変わる、ということに私は思いを新たにしました。
おかげで、今ではさまざまな文章に柔軟に対応できるようになりました。同時に、「多様性があるもの」という大前提のもと、「言葉というものを究めるのは容易ではない」という気づきをも得ることができました。
究めることが難しいからこそ、近づいてゆきたい。
しかし私は言葉について、「究めることが難しいからこそ、その本質に近づいてゆきたい」という強い願いを抱くようになりました。言葉というものの正しさ、美しさとは何なのか。文法、語源、表記論などあらゆる側面から日本語を追究し、その本質にどこまでもにじり寄ってゆきたいという思いを、今あらためて抱いています。
文章を通して、御社の信頼性を高めます。
校正・校閲やリライトによる、適正な日本語へのブラッシュアップを通じて、読みやすくわかりやすい文章を仕上げることが私の仕事です。私は、御社がホームページなどで訴えたい理念や想いが、読み手にしっかり伝わるようにベストを尽くして取り組みます。
おかげさまで、今は「とても親しみやすく、かつ想いがしっかり伝わる文章にしてくれたので、お客様からの好感度がグンと上がった!」というお喜びの声を日々たくさんいただいています。
最新の自己定義は、「日本語お助け人」です。
自らの仕事によって少しでも多くの会社のお役に立つことが、私にとって最大の喜びです。私の最新の自己定義は「日本語お助け人」です。私は仕事を通して、常によりよい日本語の文章を追究してゆきます。
(2011年6月 記)